中山道鵜沼宿 52番目の宿場町
鵜沼宿は中山道69宿のうち、江戸日本橋を出発してから52番目の宿場町です。脇本陣、町屋館の整備や景観重要建造物の保存改修、水路の復元などが行われ、江戸時代の宿場町の雰囲気を満喫することができます。
⇒ 中山道鵜沼宿の場所と行き方
鵜沼宿 探訪スポット
鵜沼宿の主な探訪スポットです。
中山道鵜沼宿町屋館
中山道鵜沼宿の町並みのほぼ中央に位置する当館は、平成18年、各務原市が武藤家から建物の寄附を受け、修復工事を経て、平成20年5月より中山道鵜沼宿町屋館として公開しています。
屋敷は、中庭を囲むように主屋、東側の附属屋、西側の離れの三棟からなり、町屋の特色をよく伝えていることから、三棟とも市指定文化財・景観重要建造物に指定されています。
また、内部では鵜沼宿に関わる歴史資料を展示しています。
中山道鵜沼宿脇本陣
中山道鵜沼宿の脇本陣は、宿駅制度が廃止された明治時代以降もその姿をとどめていましたが、明治24年(1891年)の濃尾震災で倒壊したと伝えられます。 当脇本陣は、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元し、平成22年5月より公開しています。
古い家並み
中山道鵜沼宿の南側には、宿場町の面影を留める家並みが残されています。菊川酒造と坂井家、梅田家(2軒)、安田家は、いずれも登録有形文化財です。なかでも梅田吉道家は、茗荷屋という旅籠を営んでいた家で、明治24年(1891年)の濃尾震災の際、この辺りで唯一倒壊を免れ、現在も江戸時代後期の建築を留めています。(どの建物も内部は非公開となっています。)
赤坂の地蔵堂
この辺りは宿場の入口にあたります。街道の宿場の多くは、防衛のために入口が鍵の手のように折れ曲がっていますが、鵜沼宿でも東の入口はこの地点で大きく屈折しています。
この地蔵尊は、宝暦13年(1763年)に女人講の人たちによって作られたものです。光背の部分には、『左ハ江戸併せんこうし道』、『右ハ在所みち』と刻まれています。道標としての役割もあったようです。
赤坂神社
江戸時代の絵図には「天王社」と書かれています。この建物がある辺りには江戸時代に高札場が建てられていました。
金山川の常夜燈
鵜沼宿では、当時二つの川が街道を横切っていました。そのうちの一つ、金山川がこの辺りを流れていました。現在は地下に暗渠になっています。この常夜燈は、明治時代に建てられてものです。
高札場と尾州領傍示石
高札場とは、江戸幕府や藩の法令や禁令を書いた札を吊り下げた掲示板です。当時の絵図によると、本来は東の赤坂神社付近にあったことがわかりますが、坂祝バイパス開通時に中山道との交差点になった一角に再現されることになりました。
傍示石は、当時の尾張藩領(鵜沼地区南部)と各務村の境を示した石杭です。現位置より中山道沿い西へ約800メートルの場所に立っていました。
旧大垣城鉄門
蘇原の安積家の門として使われてきたものをここに移築したものです。高麗門と呼ばれる型式の門で、正面には短冊状の筋鉄(すじがね)が張られています。このような種類の門を鉄門と呼びます。幅約5.6メートル、高さ約3.6メートルの大きさです。移築に伴う解体調査の結果、土台に墨書が発見され大垣城本丸の門であったことが分かりました。各務原市指定重要文化財です。
菊川酒造
本陣の正面でもあるこの場所には、江戸時代には河内屋という旅籠がありました。河内屋は絹屋の本家に当たる家です。この河内屋の井戸水は水質がよかったのか、皇女和宮が通行する際にお食事用の水として指定され、明治に入ると酒蔵を営むようになり現在に至っています。本蔵と豆蔵は登録有形文化財です。
参考:岐阜県観光連盟、各務原市観光協会、各務原市役所
中山道鵜沼宿の場所と行き方
AROUND JAPAN RV RENTAL 南大阪営業所 から行く場合の一例
岐阜県各務原市鵜沼西町1-116-3
駐車場:あり
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